『転ばぬ先の杖。急がば回れ。鉄は熱いうちに打て。頭隠して尻隠さず〜』末っ子の娘が、遊びながらこんな言葉を繰り返す。キッチンにいた私は、思わず吹き出した。
5歳になったばかりの娘が、ことわざを大きな声で唱えている。上の二人も目を丸くし、驚きを隠せない。見た目の幼さとはかけ離れた、はっきりした口調と内容。そのアンバランスさと言ったら、たまらなく可愛い。思わずギュッとハグをした。
聞けば、保育園で先生が教えてくれたそうだ。上二人も同じ保育園。お世話になって、すでに10年以上がたつが、初耳だった。「5歳児にことわざか。。。」思わず笑みが溢れた。私ならまずそんな発想が浮かばないし、仮に教えたとして根気よく向き合えるだろうか。子どもに何かを教えるほど、根気のいるものはない。
保育園の教育と子どもの吸収する力には、いつも感心するばかりだ。
保育園恒例の梅干し作り。先生がメインとなり、梅干しが出来る工程を体験する。完成した梅干しをキレイに包み、思い思いのお絵描きで飾り付けして持って帰ってくる。子どもたちにとって、梅干しの味は格別なようだ。すっぱい顔をしながらも、どこが嬉しさがにじみ出る。
先日スーパーに置いてある青梅やシソを見て、末っ子が誇らしげに「これ、梅干しになるんやでー」と教えてくれた。経験し、学び、吸収して、それが知識になっていく。これぞ、まさに「知育」なんだなと感じた。
車から見えるレンゲ畑を娘が見て、「これはお米のお布団になるんだよ」と自然に言葉が出るのもまさに「知育」そのものだ。お散歩途中で、その日の風や温度を肌で感じ、土の匂いを感じ、田んぼ一面に広がるあざやかな紫色を目に焼き付ける。五感を最大限に働かせ、スポンジのように吸収する心に鮮明に記憶される。
保育園での生活はまさに、子どもたちの吸収する心を最大限に活かしてくれている。ワーママとして、0歳から子どもたちを預けている私にとって、保育園は何よりも頼もしくありがたい存在。上の2人も、様々な体験を経て、成長してきた。
知育の元となるのは、イギリスの社会学者であるハーバード・スペンサーが提唱した「三育」が起源だ。彼が1861年に出版した『教育論』の中で、三育を教育の基本原理として提唱した。
三育とは「体育」(体を動かす)、「徳育」(道徳的な教育)、「知育」(知能や知力を育てる)こと。そしてここで言う知能や知力とは、子どもが自分で考え、想像し、判断する力。保育園での生活は、まさに全ての要素が詰まっているのだ。
親になり、自分自身の子育てを振り返る。目まぐるしい日々の中、子どもたちの能力を最大限に引き出せているのだろうか。人生の中で一番多くのことを学び、吸収できる時期に、親として何をしてあげられたのだろうか。そんな思考が頭の中を巡る。
一日を回すことに必死な毎日。そんな余裕はなかった自分に落胆する。仕事から帰り、夕飯の支度に追われる最中。子どもたちが「お手伝いしたーい」と言ってきても、「また今度ねー。遊んでてくれていいよ」と返してしまう。損得感情が先走り、子どもたちの芽をその場で摘んでしまう。忙しさを盾にし、それを正当化する。その繰り返しだったように思う。
ワーママ生活に、少しずつ心の余裕が出てきた今。子どもたちの「やってみたい」気持ちを、大切に育ててあげたいと思う。キッチンがぐちゃぐちゃになろうが、服が汚れようが、そんなことは些細なことだ。火傷しないか、手を切ってしまわないか。。。心配ばかりしては、何も始まらない。
挑戦して失敗して、その先にある「できた」を実感させてあげたい。たくさんの成功体験を積み重ね、「自分はできる」と自信を持ってもらいたい。きっとその自信は、「何事も諦めずに取り組む力」に繋がるはずだ。
忙しさを言い訳に、ずっと保育園任せだった。保育園がやってくれているという、甘えだったのかもしれない。子どもたちの親として、役目を果たすのに必死だった。時が戻せるならばと考えてしまう。でも、過去は変えられない。
過去は変えられなくても、これから先の未来を思い描くことはできる。その思い描いた未来を、実現させていこうと心に誓う。
子どもの可能性は無限だ。今からでも遅くはない。私には何ができるのだろう。何を残してあげるのだろう。心の余裕が出てきた今だからこそ、出来ることがあるはずだ。
次の週末、何をしようか。子どもたちが大好きな、お豆腐入りのホットケーキ。一緒に作ろうと声を、かけてみよう。
ダメ出ししたくなるかもしれない。手を出したくなるかもしれない。そこはグッと我慢。肩の力を抜いて、見守ってみよう。
美味しいホットケーキに舌鼓をうつの日が、楽しみだ。