「命の大切さ」を子どもたちに伝えるためにできる事

夫の祖母が85歳で人生の幕を閉じた。棺に眠る祖母に想いを込めたお花をたむけていると、息子のすすり泣く声が聞こえてきた。その姿と雰囲気につられたのか、長女と次女も泣き出した。次女は聞き取れないような小さな声で「ママ、怖い」と呟いた。

子どもたちの涙に込められた想いは、どんなものだったのだろうか。「ひいおばあちゃんの死」は、子どもたちにどんな影響を与えるのだろうか。そんなことをふと考えながら、子どもたちをそっと抱きしめた。

私が物心つく頃には祖父は二人ともすでに他界しており、曾祖母1人と祖母1人だけだった。遊びに行くたびに、いつも食べきれない程のご馳走を作ってくれていた。その中でも祖母が作るちらし寿司は格別で、「どうしておばあちゃんのちらし寿司は、こんなに美味しの?」なんて思いながら、格別な味に舌つづみをうっていたものだ。

母に同じ味のちらし寿司を作ってほしいとお願いしても、その味を再現することは出来なかった。祖母の思い出話をするたび、「おばあちゃんのちらし寿司、食べたいな」なんて思いにふける。

高校1年生の夏、曾祖母が亡くなった。私にとって初めて経験する「身近な人の死」だった。葬儀場の独特な雰囲気と、家族がかもし出す空気感にたじろいだ。悲しいはずなのに、悲しみきれない感覚。お通夜に告別式と刻々と過ぎていく時間に、心が追いつかなかった。足下が浮いたような感じがして、とにかく嫌だった。

大きめのメガネをかけ、いつもニコニコ笑顔で和室にちょこんと座っていた曾祖母。「ひいおばあちゃん」の存在が、子供心になぜだか誇らしく、友達に自慢気に語っていたものだ。 
その曾祖母が目の前で棺で眠っている姿は、違和感でしかなかった。曾祖母が亡くなっても、私達の時間は流れ続けている事実が怖かった。「人の死」は現実だけれど、非現実で不透明なフィルターを通して見ているような感覚。今でもその感覚は鮮明に覚えている。

2年前、子どもたちが通う保育園の先生が20代の若さで亡くなった。子どもたちも私も、大好きな大好きな先生。いつも明るく元気で、何事にも一生懸命。働く母親たちにとって「この先生に任せておけば大丈夫!」と思わせてくれる存在だった。

悲報を聞き、葬儀の場所や時間を確認しながら、ふと「子どもたちを連れていって、問題ないのだろうか」そんな思いが脳裏をよぎった。妹が亡くなった時は、長男は4歳長女は1歳。まだ「人の死」を理解できる年齢ではなかったはずだ。だが今回は長男は9歳、長女は6歳。「大好きだった先生の死」を目の当たりにさせていいものなのか。幼い彼らにとって、その事実はあまりにも辛く悲しいものではないのか。

悩みながらも、子どもたちの先生とお別れをしたいと言う意思を尊重し、葬儀場へ足を運んだ。「先生はどうして死んじゃったの?」子どもたちの純粋な疑問に、とっさに何て答えていいのか戸惑った。「先生はスゴク強い病気と戦ったんだよ。病気が強くて、先生は死んでしまったけど、もう辛くないんだよ。お空に行って、笑顔でいるよ」私なりの精一杯の言葉を子どもたちにかけた。

先生に会うと、息子は泣きじゃくった。涙が頬を伝い、悲しむ息子の姿をみて、心が傷んだ。長女は声も出さず、不安そうな表情でずっと私の手を握っていた。二人の姿は「死に対する認識」と、心に押し寄せる悲しみや不安と戦っているようだった。妹の時とは明らかに違う反応を見て、親としてこの経験を無駄にしてはいけないと強く感じた。

命には限りがある。生きている限り、必ず死を迎える。そして命は一度失うと、取り返すことはできない。「身近な人の死」を経験した子どもたちは、「命には限りがあるんだ」と身を持って知ることになる。そして大切な人を失うことで、その先の「命の大切さ」を実感するのだ。大好きな先生や優しい曾祖母との別れは、子どもたちにとって必ずそのきっかけになるはずだ。

ゲームオーバーになったら、リセットボタンを押せばいい。アニメの主人公は無敵で、絶対に死ぬことはない。そんな非現実的で非日常な世界が、子どもたちを取り巻く環境には溢れている。そんな環境の中から、良いことも悪いことも学んで行く。だからこそ周囲にいる大人の存在は、極めて重要なのかもしれない。

ゲームやアニメ、SNSの世界ではなく、他者との関わりを深め、そこから喜びや楽しみ、悲しみや苦しみの経験を学んでいく。経験から豊かな感性を育み、命と向き合える心を育んでいく。周囲の大人たちの役割はその舞台を整えてあげること。大人たちが自らお手本となり、生死に対して真摯に向き合う姿を見せることで、子どもたちに「命の大切さ」に向き合える心や力を与えられるはずだ。私も親として、子どもたちのお手本となるような生き方を見せていきたい。

人は命の大切さを知ることで、自身が「今、生きている喜び」を実感できる。「生きていることへ喜びや感謝の気持ち」を持つことで、自分自身の命や「すべての命を大切にする心」に繋がっていくはずだ。

あの日子どもたちが流した涙に込められた想いが、命を尊み大切にする心へと導かれてほしい。「命は大切である」と言葉の上だけで理解するのではなく、命と向き合った経験を通して、命と真摯に向き合う心を育んでいってほしいと願う。

子どもたちはこれから先、他者との関わりの中でより豊かな感情や感性を身につけ、より強く生きる意味を実感していくだろう。だからこそ親として、「与えられた大切な命」に真摯に向き合う姿勢を見せ続けていきたい。

実家に行き、自然と妹のお仏壇の前で手を合わせる子どもたち。写真に向かって「遊びに来たよ!」なんて声をかける姿を見ると、いつも心が温かくなる。出来るならそのまま純粋な心のままに育っていってほしい。だからこそ、これから先も子どもたちと共に、「命の大切さ」を考えていきたい。子どもたちに寄り添い、彼らの心が豊かになれるよう、共に感じ、考え、学ぶことを大切にしていこうと思う。

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