最愛の妹、そして両親へ。親となった今、想いをここに綴りたい。

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2014年 5月21日
5歳下の妹が、天国へ旅立った。
あの日からもう7年。
まだ7年。

空の上から、どんな景色を見てるのだろうか
友達と楽しく過ごしているのだろうか。
車いすを使わず、もしかしたら歩けているのだろうか。寂しい思いをしてないだろうか。

「命日」とは、故人が亡くなった日。
故人を想い、供養する日。
大切な人を偲び、記憶を呼び起こす。

私にとって「命日」は、いまだに慣れない時間。悲しみと苦しみがよみがえる。

自分の心と向き合っても、いつもその心に目を背けてしまう。いつの日か、その心と向き合える日が来るのか。

私は明るく元気な存在として生きてきた。そうあるべきなんだと、言い聞かせてきた。感情をしまい込み、誰にも見せまいと生きてきた。

心と向き合い、新たな一歩を踏み出すために。今ここで「家族への思い」を文字に起こしていこうと思う。

私たち家族にとって、父はヒーロー。
賢くて、強くて、どんな時でも家族を全力で守ってくれる。

父に聞けば、分からないことはなんでも答えを導いてくれた。

阪神大震災の朝、想像を超える激しい揺れで泣き叫ぶ私たちに、「大丈夫や!」と動揺する素振り一つ見せず、声をかけて続けてくれた父。
理想の男性はどんな人ですか?と聞かれたら、真っ先に「父です」と答えるぐらいだった。

父が泣いている姿なんて、一度も目にしたことがなかった。

そんな父が、穏やかな顔で眠る妹の横で、肩を震わせ泣いていた。
強い父が、声を押し殺し泣いていた。
その姿は、今でも脳裏に焼きついている。

自分が親になり、自分の命より大切な存在がこの世にあるんだと知った。

溢れんばかりの愛情を注げる、何よりも愛おしい存在。親になれることが、どれだけ幸せなことなのか。

子供の成長を見届けることが、親の使命。
最愛の我が子との別れを、受け入れることなんて到底できるはずがない。

両親はどんな思いで、この7年を過ごしてきたのだろう。

寂しさ
悲しみ
悔やさ
罪悪感

押し寄せる様々な思いと、どのように対峙してきたのだろうか。

子どもは親より先に死んではいけない。
親が子どもを看取るなんて、あってはいけない。「子どもの死」ほど、悲しくて切なくて苦しい出来事はないのだから。

憔悴しきった母の姿。
全身全霊で育ててきた我が子を失った深い悲しみに、沈みかけていた。
その姿を見て、心が痛かった。

目の前にいる私の姿は、母の眼に映っていないようにすら感じる。
「私がいるよ!ここにいるんだよ!」と手を何度も差し続けた7年間。
私にとっても苦しい7年間だった。

私は、少しでも両親の支えになれていたのだろうか。

両親が妹と共に歩んだ30年間。
同じ親の立場になり、両親の偉大さを改めて感じる。私だったら、乗り越えられないかもしれない。そんな思いが交錯する。

私の妹は、先天性水頭症という病気を抱えて産まれてきた。
水頭症と言う病気を、知らない人は多い。
ただ、1000人に3人の発症率を考えると、確率として低くない病気だ。

脳脊髄液がなんらかの原因で、うまく循環せず脳室にたまってしまう。
そのために脳室や頭囲の拡大が起きる。
わかりやすく言うと、頭がとても大きくなってしまうのだ。
産まれてすぐに手術が必要な病気。

妹の病気をきちんと理解したのは、小学校高学年ぐらいだっただろうか。
母からなんとなく説明を受けて、なんとなく理解した。「障がい」と言う概念も、私の中ではなかった。

母のお腹に妹がいたときの記憶は、全くない。
当時の私は5歳。
おぼろげながら、「お姉ちゃんになったら、何でも半分こしなきゃいけないのかぁ」と思った記憶がある程度。

母に聞くと、大きなお腹に口をあてて、よく話しかけていたそうだ。
一人っ子生活まっしぐらな私が、ついにお姉ちゃんになる。
さぞかし嬉しかったに違いない。

両親にとって、待望の二人目だった。
そしてお腹に宿った尊い命が、病気を抱えて生まれてくると医師から告げられた。

産まれてすぐ、亡くなる可能性が限りなく高い事実。仮に生きてくれたとしても、大きな障がいが残る事実。

その事実を知り、受け入れた両親がどんな気持ちでいたのか、幼い私は知る由もない。

産まれてすぐ、妹はそのまま手術となった
何時間にも及ぶ大手術だったそうだ。

帝王切開で産んだ母は、彼女を抱くこともできず痛みをこらえ、父と共にひたすら待った。


「今晩が山です。覚悟してください」と告げられた。震える母を、父は強く抱きしめた。

その日から私が初めて妹に会ったのは、一か月ほどたってからだった。子どもは病棟に入れないため、ガラス越しでの初対面。

チューブだらけの姿で、母に抱かれていた。
「なんだか小さいな・・・。」
それが第一印象。

両親が満面の笑みで抱いている妹を見て、すごく嫉妬した。
嫉妬で心がざわついた。
母はずっと病院に寝泊まりしていたため、長い間会っていなかった。

叔母の家に一人預けられ、とにかく寂しかった。叔母が作るお弁当には、いつも甘い卵焼きが入ってた。
その味が苦手で、いつも目をつぶりながらお茶と一緒に流し込んだ。「甘い卵焼きは嫌いやねん」とも言えず、ずっと我慢していた。

幼いながらも、私たち家族に起きている事態を察していた。

「寂しいって言っちゃいけない」、そう言い聞かせて過ごした。

安堵した表情で、妹を抱く両親がとても遠く感じた。心に鍵をかけ閉じ込めていた感情が、一気にあふれ出したのかもしれない。

強い生命力と、生きたいという意志を持って、生まれてきた妹。
そんな奇跡を起こした妹に、私は嫉妬したのだ。

その後も何度も生死の境をさまよいながら、彼女は懸命に生きた。
度重なる手術。
その都度、生きるか死ぬかを覚悟する日々。

両親はどんな思いで乗り越えてきたのだろう。

障がいをもって生まれた我が子を、全力で守り抜く覚悟。
その覚悟を揺るがしかねない、厳しい現実。

先が見えない、果てしなく長い道のりだったろう。深くて暗い湖の底から、抜け出せないような感覚だったのかもしれない。

もし私が両親の立場だったらと考える。

長男が生後二か月で、高熱を出し入院した時。
初めて熱性けいれんで、救急車を呼んだ時。
長女が仮死状態で産まれ、脳にダメージがあるかもしれと告げられた時。
次女が生後間もなく、脊髄に異常があるかもしれないと告げられた時。

その都度私は激しく動揺した。
容赦なく襲ってくる不安と罪悪感に、どう立ち向かっていいのかも分からず。
夫の前で泣き、ひたすら悲しみをぶつけた。

私は、なんて弱い親なんだ。

なんて情けない存在なんだ。

最高のお手本が目の前にいるのに、足元にも及ばない。

長男の出産日が近くなったある日、父に悩みを打ちあけたことがあった。

私は、親になれるのだろうか。

生まれてくる我が子を、きちんと愛せるのか。

きちんと育てあげらるのだろうか。

親になる責任の重さが、何より怖かった

父は笑いながら、話してくれた。

「大丈夫。お前が育ってきた通りに、育ててあげたらいいんだから。なんの心配もない」

その言葉で、私の不安は消し飛んだ。

「私には最高のお手本がいる。」

私達姉妹を愛し、育ててくれた両親。

天使のような妹の、お姉ちゃんにならせてくれた。「私は大丈夫」そう思えた瞬間だった。

気がつけば、私も3人の子どもたちの親。

そして妹も、伯母さんとなった。

こんな日が来るなんて、誰が想像出来ただろうか。

誰にも予想出来なかった、幸せな未来。それが現実となった。

愛おしそうな眼差しで、息子を抱く妹の姿。

長女が泣きやまない時、

悲しみが伝わるのか一緒に涙を流してくれた。

話せないけれど、身振り手振りで遊び相手になってくれた。

なんて私は幸せなんだろう。心からそう感じた。

彼女が操作する電動車椅子に飛び乗り、ご満悦な息子。得意気に私達を見る息子の表情は、なんとも可愛かった。落とさないようそっと息子に添えられた、妹の手。彼女の優しさの全てが、その手に詰まっている。

ありがとう。 

本当にありがとう。

貴方に会えて、幸せです。

貴方のお姉ちゃんになれて、私は本当に幸せです。

障がいを持ってうまれた妹。数え切れない幸せを、もたらしてくれた。末っ子には会えなかったけれど、きっと空から見守ってくれているはすだ。

まだまだ子育ての長い道のりは続いていく。

不器用ながらも、3人の親としてしっかり歩んでいきたい。

父と母が全力で、守り育ててくれてように。妹に恥じぬよう、彼女の分まで親としてを役目を果たしたい。 

2022年5月21日。

来年はどんな風に過ごせているのだろうか。自分の心と、少しは向き合えているのだろうか。悲しみと苦しみの時間ではなく、懐かしさや愛おしさを感じる時間でありたい。そう心から願う。

空の上は、楽しいですか?空から見る景色は、キレイですか?私達家族は、どんな風に映っていますか?

もしも話せるなら、そんな会話をしてみたい。

会えないのは、寂しいけれど。もう少し待っていてくれるかな。

私が道に迷ったら、明かりを灯して導いてほしい。自信を無くしたとき、そっと手を差し伸べてほしい。

空を見上げ、懸命に生きていこうと心に誓う。

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